2008.10.25(土)
それほど遠くはないし、いつでも行けると思いながらなかなか行く機会がなかった小江戸・川越。
10月25日(土)、やっと行ってきました。
川越駅から歩いてすぐの「中院」
天長七年(830)に慈覚大師によって創立。
すぐ脇をこんなレトロなバスが通りました。
「仙波東照宮」:元和三年(1617)家康の没時、遺骸を久能山から日光に移葬の際、
喜多院に四日間逗留し供養したので天海僧正が寛永十年(1633)、この地に「仙波東照宮」として創建。
この辺は“蔵造りの町並み”の一番街と違って、出合った観光客はほんの2,3人でした。
「喜多院」:平安時代の創建とされている。
二十七世・天海僧正が家康の厚い信頼を受けて、大いに栄えたらしい。
今は正月三日のダルマ市(初大師)として有名。
当日は七五三の親子が何組か。
さて、川越といったら「さつまいも」と江戸時代から名産地として知られる「うなぎ」。
天保三年(1832年)から続く川越を代表するうなぎの老舗「いちのや」。180年も続いていることになる。
現在は六代目。
PCで検索して「いちのや」で食事をした人の書き込みを読んでみると、“老舗”、“店内は「東山魁夷
」、「棟方志功 」の絵”、
“掛け軸や骨董品、坪庭”とか、“埼玉県民おすすめのお店”などとあったので、昼はここ。
同店のHPに“柔らかさの秘訣は割いてそのまま生蒸し、油を適度に落としてから白焼き、これが「いちのや」のやり方。”
白焼きにしてから蒸すのではなく、最初から蒸してしまうのだ。
1階の小上がりに案内された。他にもっと広い慶弔用の個室や大広間、またテーブル席もある。
土曜日ということもあるし、予約の七五三の家族連れ、法事の人たちなど、大変な客数だった。
「菊」:3600円。肝吸い付き。
鰻が三枚、重なり合いながら乗っている。
もう、歯が一本もない人でも、歯茎で食べられる位軟らかい。(あまりにも軟らかすぎ。)
タレは上品なさっぱりした薄味。
そしてごはんも少し軟らかめ。
丼物やお重はやはりごはんが硬めの方が絶対にうまいと思う。
※
しかし、この「いちのや」さん、客に頼まれないと山椒を持ってこない。
つまり、山椒をかけなければ“生臭くて食えない”、なんていう鰻ではない!と言うことを自負している。
常日頃、山椒をかけないで食べている私は、嬉しくなってしまった!
(決して山椒が嫌いなわけではない。鰻の蒲焼にはかけないだけ。為念。)
気になったので、「いちのや」での後、他の有名店も覗いてみる。
この店は、
“店のたたずまいが、割れた看板、家庭用のテーブル、安っぽいベニヤ板・・・。”
“鰻は焼きすぎ、尻尾など味醂干しを食べている感じだ。”
などと書込みがあったが、しかし、濃い目の味が好きな人にはたまらないうまさだろう、と思う。
12時少々過ぎ、覗いてみたら客の入りは半分ほど。
この店は、
“名店だが、食べている最中、店内の大勢の待ち客に後ろから覗かれていて、とてもゆっくり味わえない”、と言う記述が2件もあった。
しかし、他人の目を気にせず食べる勇気があれば、どうということはない。
12時半前、ガラス戸をちょっと開けて除いて見ると客の入りは半分ほど。
なんだ、この程度ならば“大勢の待ち客に後ろから覗かれる”心配はなかった。
この店にすれば良かったかな。
ところで、出かける前に以上の三店で実際に食事をした人の書込みを(20件ほど)読んでみたが、
鰻が軟らかい、焼きかたがどうの、タレが甘いだの丁度良いの、とは言っていても、ごはんについて語っている人は皆無。
ごはんについて何故一言も語らないのだろう、と思いました。
そして、「菓子屋横丁」へ。
昭和初期には70余店が軒を連ね、菓子の製造・卸をしていたそうだ。
現在はその何分の一になってしまった。
掘割に錦鯉が泳いでいました。
川越の見所といったら“一番街”の店蔵。
ここは「大沢家住宅」は寛政四年(1792)に造られ、呉服太物(=反物)を商っていた。
明治二十六年(1893)の川越大火で燃え残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった建物。
観光客と車の往来が激しい。
ご存知「時の鐘」
約400年前から、城下町の時を知らせてきた川越のシンボル。
現在のものは4代目。
しかし、蔵造りの店が並んでいるが卯建(うだつ)を設けている店は意外に少ないナー。
何故だろう?
車も引っ切り無しに通るし、おちおち写真も撮れません。
でも、さすが重厚な蔵造りが続いていました。
日本国中に未だに残る、こういった街並みは、後々までずっと残ってもらいたいです。
連雀町から中央通を川越市駅に向かう途中の商店街。
とある店先にこんな張り紙もありました。
来よう来ようと思いながら、なかなか来られなかった川越にやっと参りました。
この次は「川越まつり」の時にでも参りましょうか。
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